ジャニーズ批評1 なにわ男子とミセスを横断してみる
僕がなにわ男子を好きになった直接な原因が友達から激賞によるものだというのは、科学者的な目線において疑義に呈される。なぜなら、その一年後に僕の好きだった友達にミセスを推されつつそこにどこか馴染めない異物感のようなものを感じていたからである。この二つを観察実験的に批評してみようではないか。
その状態こそが、なにわ男子の、中心の回転に表彰される諸行無常に対するある種の「諦め」とともに、「なる」物語だ。 New Classicというのはアナーキー的な題名だ。新しい古典というのはどこか矛盾を孕みながら、それでもベンヤミン的に時代を超えて届くような「声」による物語を創造しようとすう意気込みのようなものが感じ取られる。 「ほぐすことのできない単語に矛盾する形容詞を付けてみると、脳の一部がほぐれる感覚がある。(中略)閉鎖的開国、国民無視の民主主義、病的健康、敗け組の勝利、窮屈な自由、できるダメ人間、年とった若者、無駄なお金のかかる節約、贅沢な貧しさ、手間のかかる即席、安物の高級品、危険な安全保障。こうして集めてみると、これは単なる遊びではなく、社会を透かし見るのに必要なレトリックだという気さえしてくる」。
ミセスを見てみよう。
そこには、大森元基という絶対的な中心を持った極座標系の語りであり、それがあらゆる「」を体現する全体であるという普遍主義的な思想だ。
ライラックの語りは、なるべき存在としての清掃員であり、先生であり、花屋の店員であり、消防士であり、飲食店の店員である。そこには証券マンもトレーダーもコンサル職員もいない。
そのどれもがエッセンシャルワーカーであるのは、ブルシットジョブの影響を受けてなのかどうかは定かではないけれど、それを一人の人間が演じるという物語には、彼らの仕事が「アトム」的なものとして客体化されている。これは、スキャンダラスな「コロンブス」騒動における、異国人を客体化した上で自集団の特徴の普遍性を押し付ける暴力的な語りと一切無関係ではない。 それは、どこかトランプ的な何かと無関係ではない気がする。
彼がターゲットにしたのも、奇しくもエッセンシャルワーカーである。